相続判例解説 共同相続人の不正確な説明により本来の相続分を遙かに下回る取得額で成立した遺産分割協議につき錯誤無効の主張を認めた事例
事実関係
・被相続人は平成7年12月22日に死亡しました。
・相続人は被相続人の子供4人です。遺産分割協議の無効を主張する相続人を甲とし、それ以外を乙、丙、丁とします。
・相続開始時の遺産の評価額は少なく見積もっても約19億5000万円でした。
・被相続人は、公正証書遺言を作成しており、上記遺産のうち、12億1500万円に相当する遺産について、遺産分割の方法を定めており、残りの遺産については何も触れていませんでした。
・法定相続分で計算した場合、甲の相続分は約4億9000万円でしたが、本件遺言で甲の取得分として指定されたのは、約56万円に過ぎませんでした。
・平成8年9月24日、乙は、甲に対して、甲が4200万円を取得し、他方、甲は相続債務は一切負担しない内容の遺産分割案を提示しました(なお、相続税負担1500万円)。
・この際、乙は、甲に対して、本件遺言に従った場合の甲の取得額は約460万円に過ぎないこと、相続税の申告期限が迫っておりこれを過ぎると数千万円の無申告加算税が課されること、したがって、上記の遺産分割案は、甲にとって最も有利な案である旨説明した。
・この結果、甲は遺産分割協議書に署名押印し、遺産分割協議が成立しました。
・甲は、遺産の取得分について錯誤があったとして遺産分割協議の無効を主張しました。
争点
本件の遺産分割協議が錯誤により無効になるか
判断のポイント
結論として、裁判所は、本件遺産分割協議は要素に錯誤があり無効であると判断しました。
裁判所が、本件遺産分割協議に錯誤があると判断したポイントは、乙が、甲に対して、本件遺言を前提にした場合、甲が取得できる遺産は約460万円であるとの不正確な説明をし、これを甲が信じて遺産分割協議を成立させたという事実です。
この部分は大事な部分ですので少し詳しく説明をします。
本件の遺産の評価額は、約19億5000万円ですが、本件遺言が遺産分割の方法を指定するなどして遺言の対象にしたのは、約12億1500万円に留まるため、残りの約7億3500万円については、被相続人は何も決めていないということになります。
この残りの約7億3500万円の遺産をどのように分割すべきかについての乙の説明が民法上の考え方に反していたことが、裁判所によって「不正確な説明をして、被告に誤解を与えたものである」と認定されました。
すなわち、本件遺言は、遺産の一部を特定の相続人に取得させる趣旨の遺言ですので、これにより遺産を取得した相続人はその相続分から取得した遺産を控除し、残りの相続分を遺言の対象になっていない遺産から取得することができます。本件に即して言えば、甲の法定相続分は約4億9000万円ですので、これから遺言で取得するものとされた約460万円を控除した残額である4億8540万円を、遺言の対象になっていない約7億3500万円から取得できることになります。これが裁判所が認定した民法の考え方です。
他方、乙は、甲に対して本件遺言を前提にすると、甲の取得分は460万円であるとの説明をしています。この460万円という金額は、遺言の対象になっていない遺産について民法の考え方とは全く異なった論理で算定されています。
この460万円という数字は、実際は乙、丙、丁が依頼した税理士が計算しているものです。この金額は、本件遺言で甲乙丙丁が取得するように指定された遺産の額の割合に応じて、本件遺言の対象になっていない約7億3500万円を分割するという根拠により算定していますが、このような算定をすべき民法上の根拠はなく、乙ら独自の計算としかいいようがありません。
つまり、本件遺言にもとづいて遺産分割をした場合、甲は本来約4億8540万円を取得できるにもかかわらず、乙は甲に対し、460万円しか取得できないと説明したということになります。これが、裁判所が指摘した「不正確な説明」の内容です。なお、甲には、相続税や相続債務の負担もありますが、これらを控除した正味の取得額であっても約2億6000万円と認定されています。
乙は、上記のように本件遺言を前提にした場合、甲が460万円しか取得できないこと、これに対して、乙の提案する遺産分割案であれば甲は約4200万円を取得でき、甲にとって有利な案であると説明・説得をしていますが、乙の説明の前提が誤っており、「有利」でないことは明かです。
ここまで誤った説明をすれば、これで錯誤を認めていいようにも思えますが、甲が乙の提案が法律上信頼性のないものと認識しつつ、それでも構わないと考えて承諾した場合錯誤が認められない余地が生じます。
そこで、裁判所は、乙が甲に対して、「本件遺言に従った場合被告の取得分は約460万円にすぎず、専門家の税理士も同様のことを述べている旨」の説明をしたこと、「甲が遺産分割方法について正確な知識」がなかったことまで認定した上で、本件遺産分割協議は錯誤により無効との判断をしました。
本件は、乙の説明と本来の相続分に極めて大きい乖離があるため、比較的錯誤が認めやすい事案であったと思われます。本件ほど、極端ではないものの、遺産分割において他の相続人から示された、相続分が本来の相続分と異なることは珍しくありません。本件は遺産分割協議を錯誤により無効と主張する際の参考になると思われますのでご紹介いたします。
参考裁判例 東京地裁平成11年1月22日
3 前記認定事実に基づいて被告の錯誤について判断する。
(一) 太郎が相続開始時に有した財産の総額は少なくとも約一九億五〇〇〇万円であり、これについて原告ら及び被告の民法九〇〇条による相続分に従った取得額は約四憶九〇〇〇万円である。
太郎を被相続人とする相続につき、本件遺言に従った処理をする場合においても、遺産のうち本件遺言に記載のあるものは約一二億一〇〇〇万円にすぎず、残余の遺産については民法九〇〇条、九〇三条等の規定による各自の相続分に従い、遺産分割の対象となる。
この場合において、民法九〇三条によれば、遺言で特定の財産を取得するものとされた相続人の相続分はその分だけ減ぜられることになるから、原告らの相続分は大幅に減ぜられるのに対し、被告の相続分はわずかしか減ぜられないことになる。したがって、被告は少なくとも本件遺言(記載総額約一二億一〇〇〇万円)に記載のない太郎の遺産約七億四〇〇〇万円から四億九〇〇〇万円に近い額に相当する財産を取得することができる。そして、相続債務は相続人らが民法九〇〇条所定の相続分に従い承継すべきものであるから、本件遺産分割協議により相続人ら内部間においては被告が負担することを要しない(負担割合零)とされた太郎の相続債務を相続人ら内部間においても被告が平等に負担することとし(相続債務約四億二〇〇〇万円の四分の一は約一億〇五〇〇万円)、また、取得額に応じた相続税(乙二二号証の記載によれば取得額約五億円に対する相続税額は約一億二〇〇〇万円程度と認められる)を被告が負担することとしたときにも、右負担を控除した後において被告が取得することのできる財産の価額は約二億六〇〇〇万円となる。
(二) 原告らが本件遺言書に従った分割案であり原告ら側の税理士が作成したものとして被告に示した甲一二号証は、本件遺言に記載のない太郎の遺産を本件遺言において原告らが取得すべきものとされた財産の額と被告が取得すべきものとされた財産の額の比率によって分割しようとした案にすぎず、その結果、本件遺言に記載されていない遺産のほとんどを原告らが取得するという結果になっている。しかしながら、遺言に記載のない財産は民法九〇三条所定の相続分の比率により相続人ら間で分割すべきものであるから、本件においては、本件遺言に従うとしても、本件遺言に記載のない財産から被告が多額の財産を分割取得することができることは、前記認定のとおりである。したがって、原告らは、被告に甲一二号証を示すことにより、被告に対し本件遺言に従えば右遺言に記載のない遺産について被告はごくわずかしか取得することができないかの不正確な説明をして、被告にその旨の誤解を与えたものである。
被告は、被告代理人弁護士に遺産分割協議の交渉を委任していたものの、本件遺産分割協議を成立させるに当たって右弁護士から遺産分割方法について詳細なる説明を受けた事実は認められないし、被告が遺産分割について正確な知識を有していた事実も認められない。
そうすると、被告は、原告らから、本件遺言に従った場合被告の取得分は約四六〇万円にすぎず、専門家である税理士も同様のことを述べている旨の説明を受け、被告において遺産分割方法についての正確な知識もなかったため、原告らが提示する分割案は本件遺言に従った分割よりも被告に有利であり、いかなる手段に訴えてもこの案を上回る額の遺産を取得することは不可能であると信じ、その結果本件遺産分割協議に応じたものというべきであるから、被告にはこの点に錯誤がある。
(三) 被告の錯誤は、本件遺産分割協議を成立させるに至った動機の錯誤ではあるが、原告らがその提示する分割案における以上の遺産を被告が取得できないかのような説明を行ったために被告がそのような動機を抱くに至ったのであって、要するに、本件錯誤に係る被告の動機は原告らが被告に本件遺産分割協議に応じるように説得した原告らの説得内容そのものであるから、被告の右動機は当然に原告らに表示されているものというべきである。そして、被告が民法九〇三条所定の相続分に従った遺産分割を希望すれば本件遺産分割協議の内容(被告の取得額は約四二〇〇万円)よりもはるかに多くの遺産(民法九〇三条に従った場合の被告の取得額は相続債務及び相続税を控除しても少なくとも約二億六〇〇〇万円)を取得できる可能性があることを知っていた場合には、通常人であれば本件遺産分割協議に応じることはないと解されるから、被告の錯誤は本件遺産分割協議成立に向けた意思表示の要素の錯誤というべきであり、被告の錯誤によって成立した本件遺産分割協議は民法九五条により無効である。
(四) なお、原告らは、被告は手取の現金額が多くなることを希望していたところ、手取現金額を基準にすれば、本件遺産分割協議の方が民法所定の相続分によった場合よりも被告の取得する現金額は多くなり被告に有利であること、本件遺産分割協議では被告の取得する現金額を多くするために太郎の債務を相続人ら内部間においては被告に負担させないこととしていたことなどから、本件遺産分割協議は被告の希望に沿うものであり被告に錯誤はなかったと主張する。しかしながら、原告らはそもそも民法所定の相続分と比較して本件遺産分割協議案の内容を被告に説明したわけではなく、被告も両者を比較検討した結果本件遺産分割協議を選択したものではないから、原告らの主張はその前提を欠くというべきである。また被告は、遺産分割協議が行われるようになった当初から相続人間で平等な分割を行うよう要求し、原告らと同様に不動産を取得したいとの具体的な希望も述べており、その後被告代理人に遺産分割協議を委任して不動産に関して本件相続登記を了したことからして、被告が現金のみならず不動産等の他の遺産を取得することを希望していたものと認められる。
原告らは、企業経営や商取引の経験に乏しい被告が民法九〇〇条による相続分に応じた多額の相続債務及び相続税の負担を負わされた上で換価の困難な不動産や非上場株式を取得しても、相続債務及び相続税の履行に困るだけであるから、本件遺産分割協議は被告に不利益ではないと考えていたようでもある。しかしながら、被告に前記錯誤があった以上は、多額の財産を相続し多額の相続債務及び相続税も負担するという選択肢などの他の選択肢についても被告に検討させた上で、改めてどのような遺産分割協議であれば応じるのかについての決断をさせるのが相当である。したがって、本件遺産分割協議はいったん錯誤無効により御破算にすべきであるという前記結論は右の事情によって左右されるものではない。